デヴィ夫人(デヴィ・スカルノ)といえば、歯に衣着せぬ発言をするかと思えば、イッテQなどのバラエティ番組では体を張るなど、まずます元気になっているように感じさせます。
また、デヴィ夫人は若い頃はとんでもなくきれいだったと聞きます。
特に娘時代は格別の美しさだったということですので、今回はデヴィ夫人の若い頃にスポットを当てて画像を比較する形で紹介していきたいと思います。
デヴィ夫人の若い頃の画像がきれいでヤバい!
デヴィ夫人の若い頃。
お前より完璧美しいw pic.twitter.com/QALxp7IQ— Reika (@Reikaaachan) January 14, 2013
まだまだ元気なデヴィ夫人ですが、現在何歳なのかご存知ですか?
なんと2020年の誕生日で「80歳」になっていらっしゃいます。
テレビでの活躍ぶりなどを見ると「そんな年齢なの?」と驚いた方も多いと思います。
80歳であの美貌ですから、若い頃はさぞかし美しかったことでしょう。
そんなデヴィ夫人の若い頃の画像を幾つか用意しました。
その画像がこちらです。
若い頃のデビィ夫人は天使。。笑笑 pic.twitter.com/RH2gQx8cuF
— 岸 航平 (@lastyear0831) May 29, 2013
まって、デビィ夫人の若いころ美し過ぎる pic.twitter.com/dvNfkCW2zp
— 유이 (@holic_days_s2) January 19, 2015
どうですか?
綺麗でビックリしますよね。
目は大きくパッチリとした二重で、鼻筋もスラッっとしています。
この画像のデヴィ夫人は10代や20代の頃のものと思いますから、およそ60年ほどものということになります。
当時の日本の状況を考えると、デヴィ夫人の美しさは別格だったと思われます。
若い頃のデヴィ夫人は「東洋の真珠」と呼ばれていたそうですが、画像を見ればそう呼ばれていたとしても不思議ではないですね。
改めて説明するまでもありませんが、デヴィ夫人は故インドネシア大統領の奥様ですが、この美貌の持ち主であれば大統領の目に留まったのも納得してしまいます。
デヴィ夫人の現在のイメージ
突然ですが、デヴィ夫人にどのようなイメージを持っていますか?
「セレブの外人のおばあちゃん」で「バラエティー番組などでよく見かける」とか、「化粧も濃く(少なくとも薄いとはいえない)髪型もずっとアップにされていて情報番組などではキツい辛口ご意見番」とかなどではないでしょうか。
代表的なところでは、バラエティー番組「世界の果てまでイッテQ!」ですね。
デヴィ夫人が、バラエティー番組の収録中に一般の女性出演者(33)を平手打ちしたとして女性は被害届を提出し、同庁は暴行容疑で逮捕。 pic.twitter.com/9WK2ZUP8cj
— 智太郎:tomotarou (@tomotarou33) January 20, 2014
まじデヴィ夫人の自転車練習みたいだったね。過酷すぎた。 pic.twitter.com/bkXlMPKKXc
— ふぉい (@Oo_BAqN_oO) September 20, 2016
この番組では出川哲朗さんと一緒になって年齢を感じさせない身体を張った挑戦をされていますね。
デヴィ夫人の若い頃の逸話が壮絶すぎる
デヴィ夫人の若い頃綺麗すぎんか
この顔で純粋な日本人やで
赤坂のホステスからインドネシアの大統領夫人に🤔夢がありますなぁ pic.twitter.com/OtATPa0O4N— ☀️やるきげんきだいき☀️ (@daiki_fino) June 20, 2020
ここではデヴィ夫人の若い頃の話を紹介していきたいと思います。
先ほどふれた通り、デヴィ夫人は故インドネシア大統領の奥様です。
本名は「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」さん。インドネシア名です。
旧名である日本名は根本七保子さんといいます。
そうです、デヴィ夫人は今でこそインドネシア国籍を取得した外国人となりますが、東京都港区西麻布で生まれた日本人の方なのです。
ここでデヴィ夫人の壮絶な人生を幾つかに分けて簡単に説明します。
- 幼少の頃
- 10代の頃
- 20代の頃
幼少の頃
根本七保子さん(デヴィ夫人)が4歳・5歳の頃は太平洋戦争の真っ只中で東京はアメリカ軍から爆撃を受けます。
75年前の今日。1945年3月10日,東京大空襲。B-29約300機が来襲し,約1700tの焼夷弾を投下。死者8万人以上,罹災者100万人以上。写真は空襲後の空撮写真。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。 pic.twitter.com/TdjnleXT3R
— 渡邉英徳 (@hwtnv) March 9, 2020
このような背景があり、根本七保子さん(デヴィ夫人)家族は東京から福島へ疎開(非難)します。
終戦後、一家が東京に帰った時、根本七保子さん(デヴィ夫人)の家は残っていました。
根本七保子さん(デヴィ夫人)の父はの職業は大工だったということもあり、空襲で家を失くした人たちに無償で家を建ててあげていました。
しかし、無償で家を建てていたため大工としての収入は少なく、一家の収入は母の内職がメインでした。
当然、極貧の生活となっていたため鳩を食べたり、雑草の味噌汁だったこともあったようです。
きっと現代の日本では決して考えられないような辛い経験だったのだと思います。
ただ、この頃のデヴィ婦人は幼かったためどうすることも出来ませんでした。
10代の頃
デヴィ夫人は中学を卒業すると東京都立三田高等学校の定時制に通い始めますが、同時に家計を助けるために千代田生命保険(現ジブラルタ生命保険)に入社します。
昼休み時間も削って近くの喫茶店でのアルバイトをしたりと家族を支えるため必死になって働いたそうです。
しかし、根本七保子さん(デヴィ夫人)が16歳の時、父が他界したことをきっかけに高校を中退します。そして、17歳で赤坂にある有名高級サパークラブ「コパカバーナ」で働き始めます。
コパカバーナ云々双日の商社マン云々の話をそれとなーくボカしてるなデヴィ様…つかやっぱ若い頃きれえ…(蘭領インドシナやなく蘭領東インドね)#サワコの朝 #デヴィ夫人 pic.twitter.com/4NemmLlT47
— 女工ミミ年増@減量中 (@mailmionomee_yu) February 16, 2018
根本七保子さん(デヴィ夫人)は、「コパカバーナ」で働き始めることで運命が大きく変わっていくのです。
この高級サパークラブ「コパカバーナ」のお客様の90%がハイエンドな外国人で、世界の社交場であったのです。
このクラブで知り合ったお客さんの紹介でスカルノ大統領と出会うことになるのです。
スカルノ大統領の横でほほ笑む「選ばれた女」であるデヴィ夫人。優雅なたたずまいと衣装が素敵 pic.twitter.com/OhmPvoj6pr
— CeritaDunia (@HistoriDunia2) May 23, 2020
根本七保子さん(デヴィ夫人)、19歳の時でした。
また「インドネシアに遊びに来ないか?」とスカルノ大統領からの誘いで19歳の時にインドネシアに渡ります。
20代の頃
インドネシアのスカルノ大統領夫人だったデヴィ夫人が美しすぎる。 #いだてん pic.twitter.com/kALauKWvS1
— Shin (@hellhammer_shin) November 17, 2019
20代はデヴィ夫人にとって、激動の時代です。
- スカルノ大統領と結婚(第三夫人)
- 実母の死去
- 実弟の死去(自殺)
- インドネシアで軍事クーデター(9.30事件)発生しスカルノ政権は事実上失脚
- 長女カリナさん出産(スカルノ大統領8番目の子供)
- フランスへ亡命
- スカルノ大統領が死去でインドネシア政府から地位や財産、相続権までをも剥奪
- 日本で芸能活動開始
わずか数年で天国から地獄を味わっているようです。
しかし、日本に戻って芸能活動をスタートしたデヴィ夫人にとって「戦争と貧乏を経験できたことがプラスになった」とのことです
テレビで見るデヴィ夫人の堂々としていますが、この頃の苦しい経験をしているからかもしれませんね。
まとめ
若い時、美しかったデヴィ夫人について、そして若き日のその壮絶な人生をお伝えいたしました。
その誰もが憧れる美しさは認めるものの、その人生は凄まじいものがありますね。
美しさの代償ともいえる人生を歩んでいらっしゃいますよね。
容姿は別にしても、そのたくましさは私達も見習わなくてはいけませんよね。